2015年01月19日

日本で夢を追いかけ続けた一本足打者、大豊泰昭さん死去

中日・阪神で活躍し、一本足打法でファンを魅了した大豊泰昭さんが、かねてから患っていた急性骨髄性白血病で亡くなりました。まだ51歳という若さ。これからも色々なところで活躍していくだろうと思っていただけに残念でなりません。


大豊さんは台湾で生まれ、王貞治さんの一本足打法をテレビで見て日本に憧れ、1984年に来日し、名古屋商科大学に入学しました。愛知大学野球で当時最高となる通産24本のホームランを打つ記録を樹立し、それを見ていた中日のスカウト陣が球団職員として迎え入れ、1988年のドラフトで2位指名されて入団背番号は王さんのホームラン記録を超えるという意味で55となりました。

中日時代には、ナゴヤ球場というグラウンドの狭さもあってホームランを量産。後述しますが、一本足打法から繰り出される火を噴くような当たりは、それだけでファンの語り草になりました。中日に入団後、一本足打法に磨きをかけた結果、1994年にホームラン・打点の2冠に輝きました。
しかし、入団時期が遅かったこともあり、加齢による衰えも目立ち、かつ守備の酷さで徐々にレギュラーでの登場が減ることとなり、あまつさえナゴヤドームができたことでそれらの影響を鑑みた中日サイドは1997年にトレードで阪神に放出されました。

阪神では当時の野村克也監督との衝突もありあまりレギュラーとしては活躍できなかったものの、ホームランバッターとしての魅力は復活しました。しかし2000年に阪神球団との衝突で自由契約となり、2001年再び中日に戻ることになったものの、往年の活躍は見られず、2002年に引退することとなりました。

引退後は中日に残り、スカウトなどを務めていましたが、その傍らで2004年に中華料理店を名古屋で開店。大豊さんの豪快ながらも明るい人柄もあって、現役時代を知るファンや選手達などが訪れる人気の店となっていました。
しかし2005年に前妻の急死、2009年には死因となる急性骨髄性白血病に罹り、それに伴って店も名古屋から岐阜県海津市にあるお千代保(ちょぼ)稲荷参道内の一角に移転するなど晩年は苦労が続くこととなりました。それでも、2004年に中日に入団し大リーグでも活躍することとなるチェン・ウェイン選手を獲得するきっかけを作ったり、娘さんがタカラジェンヌ(95期生で星組所属のひろ香祐さん)になるなど輝かしい出来事もありました。


大豊選手はとにかく豪快なバッティングが印象的でした。私は中日のファンではないですけれども、大豊選手は応援していたところがあり、応援歌だった勇者ライディーンの主題歌が流れる中、先述の火を噴くようなバッティングを披露し、それに魅了された一人でもあります。
一本足打法でためにためたパワーを一気にぶつけて、それがドンピシャになった時の球の伸びは、ナゴヤ球場だったからということを差し引いてもよく飛んだ印象がありましたし、当時は広い球場だった東京ドームでもその広さに負けない飛距離はあったと思っています。
引退後にテレビで見た時も、病気と思えないくらい元気で明るい人でした。一度店に行ってみたいなと思っていて、結局存命中には行けなかったのは非常に残念でなりません。お千代保稲荷の店に何とかして・・・と思っていますが、あそこは交通の便が非常に悪いので早々に行けないんですよねぇ。そして存命中最後に出演した番組でもかなり痩せこけた中でも気丈に振る舞っていたその姿に涙した一人でもあります。


ご冥福をお祈り致します。そして夢と希望を異国の地で与え続けてありがとうございました。


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Posted by alexey_calvanov at 23:21Comments(0)TrackBack(0)