2013年08月25日

小さな大打者、宮本慎也引退

ヤクルトの最年長選手で打撃コーチも兼任していた宮本慎也選手が引退を表明しました。周囲はまだ続けられるのではないかと慰留していたそうですが、本人が現役続行を断念したため、今回の引退劇になりました。引き際の美学というのを知っていたのでしょうね・・・。


宮本選手は1994年にドラフト2位でヤクルトに入団。以降引退するまでヤクルト一筋19年、ルーキーイヤーは主に守備固め、その後遊撃手のスタメンとして主に守備面で活躍しました。
1990年代のヤクルトというのは野村克也さんが率いるヤクルト全盛期でもあり、宮本選手の堅守がリーグ優勝や日本一に大きく貢献しました。

また、宮本選手はヤクルトだけに留まらず日本野球界でも大活躍しました。
選手としてはアテネ・北京の2回のオリンピックで主将を務め、アテネでは銅メダル獲得に貢献しました。WBCでも追加召集ながらも川崎選手のケガによる交代以降、当時の本職だった遊撃手として活躍しています。
野球をしていない時には、選手会長として2005年~2008年まで務め、球界再編後の難しい時期ながらも渡り歩いてきました。

その後、年齢面などで遊撃手から三塁手にコンバートされ、2009年から選手兼コーチになってからもスタメンとしてヤクルトの要、かつ若手の指南役として支え続けていました。また自らうるさ型に徹し、先述の若手(負けたのに若手が風呂場で談笑していたのを一括したという話が有名)だけでなく、球団(主にスコアラーの増員・2軍の本拠地である戸田球場の室内練習場建設の懇願。特に戸田球場のフェンス張り替え費用を自身が提示した減俸分との差額でねん出させたのは有名な話)、球団マスコットのつば九郎(FC東京などから移籍交渉が飛び交った際、「出て行きたければ出て行けばいい」と一喝している)にまで苦言を呈したそうです。ここまで言う人は、なかなかいないと思います。それだけヤクルトという球団を愛していたんでしょうね。


打撃面に関しては、当初は野村さんからぼやかれるほどからっきし(実際、選手層の厚さもあったが、8番を打っていたほど)でしたが、徐々に向上させ、2012年には史上最遅の2000本安打を達成しています。また犠打の技術も徐々に向上させており、2000本安打を達成した同じ年に400犠打を達成しています(名球界入り選手としては史上初)

実は、この年で引退を決意していたそうですが、球団に慰留され今年も選手としてプレイしていたわけです。
その今年はケガをしたことや球団成績の低迷もあり、徐々に若手の育成に充てるためスタメンを譲ることが多くなり、次第に活躍の場を失っていました。そんな中でも今年のオールスターでファン投票で選出され、まだまだ宮本選手を必要としていることをファンも訴えていた中での今回の引退劇、誠に残念でもあります。


今後は愛していたヤクルトを離れ、グラウンドの外から野球を見つめていくとのことだそうですが、いずれ監督として戻ってくることを待ちわびつつ、残り少なくなった野球生活を見ていこうと思います。華麗な守備・シュアなバッティングをその目に焼き残して・・・。
引退試合に行きたいけど、いつになるんだろう・・・。平日だろうなぁ・・・。無理だよなぁ・・・(泣)。


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Posted by alexey_calvanov at 23:58Comments(0)TrackBack(0)