2020年02月11日

月見草は枯れることは無い

今日、野村克也さんが亡くなったそうです。3年前に奥さんの野村沙知代さんを亡くしており、その時の意気消沈ぶりを見て大丈夫かな・・・と思っていたら、思っていた以上に元気だったので、これで大丈夫かなと思っていました。そうしたら、いきなりの訃報。テロップを見た時驚いたものです。


野村さんは京都府京丹後市生まれ。一家は貧しく、かつ病弱だった母親を助けるため、幼い頃からアルバイトをして生計を立てて生活したほど。高校も兄の援助(大学受験を断念したお金を工面した)で通ったほどでした。その貧しい生活から脱却するために、歌手になろうと中学時代はコーラス部に入部したり、俳優になろうと映画館通いもしていたものの、やがて当時プロ野球を騒がせていた川上哲治さんや大下弘さんなどにあこがれ、野球の道に進みます
野球選手としてのセンスはあったものの、通った高校は甲子園に進むことは無い弱小校だったため、高校卒業前に当時の部の顧問がプロ球団に推薦状を書いて送ったほど。その中で、南海ホークス(現在の福岡ソフトバンクホークス)から返事が来て、テスト生として入団したものの、南海としては練習相手(ブルペンキャッチャー(いわゆるカベ))としての獲得だったと言います。1954年のことです。

しかし、そこで必死に練習した野村さんは、やがてキャッチャーとして頭角を現します打撃面でも不振に陥った時、ファンからもらったテッド・ウィリアムスの著書をきっかけに打撃開眼しています。1965年には戦後初の三冠王にもなり、守備だけでなく打撃でも南海の中心選手になっていきます。
野村さんが入団当時から黄金時代に差し掛かろうとしていた南海でしたけど、野村さんが入団して主力になってから、さらに輝きを増し、南海在籍時代は7回の優勝(うち日本一2回)を果たしています。しかし、この時の人気も実力も巨人一強だった時代。いわゆるON(王・長嶋両氏のこと)の人気に消されるように、出した記録はことごとく彼らに奪われていきます。また「黒い霧事件」という八百長事件の影響もあって、パリーグの人気は地に落ちており、野村さんの活躍があっても誰も見向きもされないこともあったそうです。
それでも、野村さんは後に主流になるデータ野球の理論を確立し、当時は高価だった8ミリのビデオカメラを使って相手を研究し、相手のクセを盗むということを仲間達と一緒に行っていたそうです。また投手がランナーを背負った際、キャッチャーに素早く投げる投法であるクイックモーションを生み出したのも野村さんと言われています(当時盗塁王を毎年獲っていた福本豊さん対策と言われている)。つまり、野村さんは近代(現代)野球の礎を築いたと言っても過言ではないでしょう。

そんな野村さんは、1969年にプロ野球初のプレイングマネージャー(選手兼任監督)に就任。実質南海を1人で引っ張る格好になりました。しかし、この頃から南海に所属していた他の選手・フロントと確執が起こり始め、後に妻になる野村沙知代さんの球団への過干渉がきっかけで退団に追い込まれます。ただ、『野村追放』をきっかけに南海は長期低迷時代に突入し、球団をダイエーに売却しても、それに伴って福岡に移転しても、しばらくはBクラスから抜け出せない状態になってしまったのです。

その後、野村さんはロッテオリオンズ(1978年)、西武ライオンズ(1979年~1980年)に在籍。45歳で引退しました。出場試合3017試合は歴代2位、1950年代~1980年代という40年にわたってオールスターゲームに出場した選手は、野村さん以外まだ誰も達成していません。


その後解説者を経て、1990年からヤクルトスワローズの監督に就任。約20年ぶりに就任した監督業では、データ野球(ID野球)を掲げ、優勝を4回(うち日本一3回)果たしています。
1999年には阪神タイガースの監督に就任したものの、3年連続最下位の不名誉な記録を得ることになり、かつ沙知代さんの不祥事で退団に追い込まれます。しかし、彼の築いた礎は、後に星野仙一さんによって花開くことになります。
再び解説の仕事をした後、社会人野球のシダックスの監督に就任(2002年~2005年)するなどを経て、2006年には球団創設間もなく、戦力の整っていなかった東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任します。そこでは若手の育成にまい進し、田中将大選手をエースに仕立てます。またベテランの山崎武志さんを再生し、ヤクルト・阪神時代の代名詞だった「野村再生工場」を楽天でも見せました楽天時代も優勝は無かったものの、最終年(2009年)で2位になり、クライマックスシリーズ進出を果たしています。


野村さんは、先程書いたように近代野球の礎を築いた人でもあるのですが、言葉の使い方が上手い人で、その集大成が「ぼやき」に代表される一言だったと思います。また野球の理論を丁寧にかつわかりやすく解説することもでき、「野村スコープ」(投球ゾーンを9等分して、そこから投球を分析するもの)という配給の読みも代表的な例として挙げられます


あなたがいなければ、今の野球はありません。あなたがいなければ、素晴らしい選手が今フィールドに立っていなかったでしょう。あなたがいなければ、今の野球の楽しさを知る人はほとんどいなかったでしょう。野村さん自身は月見草と例えましたけど、その功績はヒマワリのように太陽の光を受けて、たくさんの種をまいてくれました。本当にありがとうございました。唯一私が惜しいと思ったのは、日本代表監督をやってほしかった、それだけですね。


ご冥福を心よりお祈り致します。


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Posted by alexey_calvanov at 23:58Comments(0)

2014年07月23日

ノムさんを越えた!

中日の谷繁元信選手兼任監督が、昨日(7/22)のDeNA戦で3ランホームランを放ったことで、新人時代から続けている毎シーズン本塁打の記録を伸ばしただけでなく、野村克也さんが持っていた25年の連続本塁打記録を破る26年連続本塁打記録となりました。


谷繁選手兼任監督は1988年のドラフトで当時の大洋(現DeNA)に入団。新人時代からマスクをかぶる機会が多くありました(そのため、打席に立つ機会に恵まれたとも言える)。1997年~1999年、2001年~2005年には2ケタ本塁打を放っており、ホームランバッターではないものの、要所で勝負強さを発揮していました。
2014年は選手兼任監督に始めて就いたというのと若手の育成、さらにひざのケガをしているとも言われているためか、スタメンマスクないしスタメンマスクとの交代で出場する機会がめっきり減り、この時期でも本塁打が出ていないため、もしかしたら今年は無理なんじゃないか・・・と思っていた矢先に出たので、やっぱりこの人は違うなぁと思ってしまいましたね。
また、本塁打の出た球場が古巣の横浜スタジアムなのも、何かしらの因縁があったのでしょうかフェンスが高いながらも本塁打が出やすい球場とも言えるので、谷繁選手兼任監督のようなホームランバッターではない選手でも出やすいんでしょうね。ただ、打球の勢いはすごくて、打った瞬間にスタンドに吸い込まれるなとわかるような当たりでしたけどね。


しかし、谷繁選手兼任監督には、まだ残されている記録があります。それは捕手として出場した試合数野村克也さんが残した3016試合を越えるというのがあります。
残念ながら出場機会が少なくなってしまったため、今シーズン中の達成はできなくなってしまいました。しかし、もしかしたら来年の今頃、その記録を達成したという話が書けるのかもしれません。そのためにも、大きなケガなくシーズンを過ごして、もう一つの偉大な記録を塗り替えてほしいものです。


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Posted by alexey_calvanov at 23:24Comments(0)TrackBack(0)