2020年05月28日

内向きなのか外への開放をしているのか、よくわからないツイッター

この頃のツイッターのやり取りがおかしい。


先日、ツイートに返信できる対象を制限する機能を設けると公式ブログが発表しました。まだテスト段階とはいえ、いわゆる『FF外(フォローおよびフォロワー関係にないユーザー)から失礼します』ができなくなってしまうんです。
この機能は、ツイート時に返信できるアカウントを全員・フォローしているアカウント・@ツイートしたアカウントのみから選択するというもの。全員以外は、いわゆるFF外からの返信ができなくなります。
公式によれば、管理のしやすさ・より多くの人々に会話に参加する機会を与えやすくする・創造的になれるとのことで導入を検討しているそうですが、管理をしやすいのはともかく、これで会話に参加する機会を増やせるのか、ましてや創造的になれるのか甚だ疑問。逆に閉鎖的になって自分の都合のいい意見しか通さない風潮を助長しかねないと思うんですよ。

この流れは昔から気にしておりまして、SNSが一般的になる少し前、丁度日本でGREEがちょっとしたムーブメントを起こしていた時から嫌な流れだなと思っていたんです、イエスマンしか入れない風潮というのを。あの時の嫌な感覚が今でも甦るんじゃないかと思うと、ものすごく気分が悪いです。
私がツイッターをやる予定が無いのは、自由な書き込みができない。つまり、ツイッターのアカウントを持っていないと閲覧だけしかできないのです。そんな不自由を認めることは、何かその事象に反対することも自由にできなくなってしまうのです。身勝手な意見だけを通して、自由に発言することを許さない。あの悪辣な出来事、もう10年以上経ったというのに、また今噴き出さんとしているのか・・・。


そんなことを起こしている一方で、ツイッター自身が締め付けをして、相手の都合のいい意見を抑え込む動きも見せています
きっかけは、アメリカのトランプ大統領のツイート。郵便投票をすれば、不正が横行しかねないとツイートしたことに対して、ツイッターが事実無根だと警告を出して『対抗』しました。このことに怒ったトランプ大統領は、ツイッターなどSNSに対する締め付け(対象の規制や同じく閉鎖)を考えているとも言われています。
これは先程と逆で、FF外から失礼して対抗した、つまり公権力の行使をしたわけですね。ユーザーが起こす『公権力』にはNOを突き付けながら、自分達の『公権力』はOKというのも何か矛盾していますよ。もちろん、事実無根であることを訴える点で行使したなら、問題はないと思いますが、これは他のユーザーが大勢で出すべき物事なんだと思うんですよね・・・。


とにかく言いたいのは、自由に物事を言えるようにしなければ、ユーザーも管理者もほぼ対等(唯一管理者が上に立てるのは、事実無根の意見に対する削除権があるか無いかくらい。これは晒されたユーザーの申し立てを吟味する人がいないといけないと思う)でなければ、健全な議論も言論も生まれないのです。一方の力が強過ぎて、かつ一方の意見しか通せない風潮は、イエスマンを生み出すだけの陳腐な叩き台にしかならないのです。与党の力が強過ぎる今の国会がそれに近いと思いますし、イエスとノーしかない二大政党制もそれに近いです。つまり多様性が失われるのです。


誰でもいいので、誰もが自由に閲覧できるだけでなくログインが無くとも書き込めるソーシャルネットワークサービスを実現してほしいです。これもよく言っていますが、「にちゃんねる」(現在の「5ちゃんねる」)のような言葉使いが荒く殺伐としていても、自由闊達な意見を書き込める場所が一番いいのだと。時におかしな意見が出ても、ユーザーが『違う』と修正を掛けてくれる。ツイッターにはそれが十分に無い。あくまで炎上で派手になっているだけで、私のような『FF外』は、違うと思っても参加もできないのだ。だから、私はアカウントを取るつもりはない取ったら負けだ、そう思っています。


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Posted by alexey_calvanov at 23:40Comments(0)