2015年05月12日

東北へ。2015⑧ 最終目的地までの苦難の道

仙台駅に着いたのは、午後4時前。仙台空港からのフライト時刻は午後8時半なので、まだ4時間半ある。そう、この時は余裕綽々(しゃくしゃく)だったのですが、それは大きな間違いであることに気付くのでした。


まず、その歯車が狂うきっかけになったのは、目的地に向かうバス最後の目的地は蒲生というところで降りて歩くというふうだったのですけど、その蒲生まで行くバスが途中(6号公園住宅前)までしか運行していないんです。しかもそのバスが30分すぎにならないと来ない。恐らく終点近くまで乗ることになるので、1時間は掛かるはず。しかも最寄りのバス停が運行休止状態ということを考えると、これ以上のロスは危ないかもしれないと考え、急遽仙石線でのショートカットを図ることを決めました

仙石線に乗った場合、陸前高砂駅というところで降り、同じ系統のバスに乗っていくというふうになり、だいたい20分くらい早く迎えるようなのです。早く気付いたおかげで、午後4時54分(だったと思う)のバスにはギリギリ間に合った・・・と思ったら、バスが定刻を過ぎてもちっとも来ない(苦笑)。もしや検索に気を取られてバスが行ってしまったのではないかと心配になり、同乗することになる方に伺ったところ、まだ来ていないとのこと。あーよかった。


定時より10分近く遅れてバスがやって来た。恐らく仙台市内の渋滞に巻き込まれた結果なのではないかなと。
しかしそこで乗ったのは、先程バスが来たのかを聞いた人と私の2人のみ。その方も私が降りる1つか2つまえの停留所で下りてしまったので、私の貸し切り状態(汗)。それでも淡々と、仮に誰かがいなくてもルーチンワークでアナウンスなどをこなしているバスの運転手は本当に素晴らしいねと敬意を評したい気分ですよ。


私が降り立った場所は中野新町というバス停。時刻は午後5時10分を過ぎていたと思われ。周りは大きな建物がちょこちょこ見られるだけで、寂しい場所と言えば寂しい。
しかし本当に寂しくなるのは、この先の目的地今回最も行きたかった場所でもあります。その目的地は、中野新町のバス停からでも歩いて20分ほど(2km以上)あるのではないのかと。


SHL23_1493その道すがら、バスが途中で運休していた理由がわかってきました
途中の道が震災の影響で壊れているのです。これは地震によるものではなく、津波によるものだと。



SHL23_1495周りに家が無いと思ったら、家があっても、ほとんどが空き家。しかも朽ち果て放置された状態の家になっていました。
震災から4年以上たった今でも、この家はあの日あの時の惨状を伝えたまま、時が止まってしまっているのです。



SHL23_1494そして、津波で倒れた看板ここに町があったことを示し、ここが津波によって町が呑まれたことを示すものでもあります。



SHL23_1496さらに先に進むと、小学校(仙台市立中野小学校)の跡地がありました。恐らく建物は残っていたものの、取り壊して更地にしたのではないかと思われます。
このあたりは5.5mの津波が襲ってきたようです。ちなみに、この小学校の前にはバス停がありました。本来なら、このバス路線で来るはずだったのです。



SHL23_1497小学校跡地そばにある「東日本大震災慰霊の塔」。
近くの小学校でも大勢の犠牲者が出たことでしょう。付近の住民も亡くなられた方がいらっしゃったのではないかと思います。その方々を想い、合掌。



SHL23_1498いよいよ目的地が近付いてきました。
その場所に近付いてきたことを示す「蒲生の一本松」。幸いなことに、このあたりの松の木は何本か残っており、七本松まであったようです。



SHL23_1499そして、高砂神社
津波で全て流されてしまったものの、支援者と有志によって再建されました。震災の跡残る狛犬も、この地で来る人達をじっと見守っております。



SHL23_1500いよいよ目的地に着きました。
ここが私が一番訪れたかった場所、蒲生にある日和山。「日本一低い山」として再びその名を残した山です(詳細はこちら)。



SHL23_1501その日和山の全貌。
残った盛り土の上に、誰が始めたかわからない積み石が置かれ、そこから「日和山山頂3.0m」と書かれた木製の標識が立てられていました。
かつての高さが6mほどなので、約半分しか残っていないのですが、その存在感は他の山に負けないものを持っていました



SHL23_1502側面から見たところ。
ここから見ても、炉端に積み上げられただけなのがよくわかります。



SHL23_1503今は何もないその先。ただ海が広がっているその先。
その昔、日和山のそばには蒲生干潟という大きな干潟が広がり、野生の鳥が多く住まう土地でもありました。また多くの自然が残されていたこともあり、海水浴や潮干狩りでにぎわう姿も見られたとのこと。
しかし、震災で全てが無くなりました。いや、無くなったかのように見えたのです。
無くなったと思った山は残りました。砂浜や干潟は無くなったように見えますが、近くの砂浜にはアサリが採れるそうです。また大きな鳥が相変わらずと言えるほど飛ぶ姿も見ました。失ったと思われたものは、再び戻って来ているのです。

ちなみに、この日和山は断続的に訪れる人がいました。車で行く場合、案外便のいいところだからなのかもしれません。歩くには辛いけどな(汗)。



で、日和山を出発しようとするものの、時間は既に午後6時近く。最寄りのバス停である中野新町から余裕で乗れる。しかし、その先がどうなのかがどうとも言えない。下手をしたら間に合わない可能性もある。しかし、ここからなら仙台空港は仙台市内経由よりも近い(でも10km以上あるが)


さあどうするというところで、次回に続く。


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Posted by alexey_calvanov at 23:30Comments(0)TrackBack(0)

2014年05月30日

そして、山は残った

宮城県仙台市宮城野区、太平洋を望む平地にポツンとあった小高い丘のようなところ、それが元祖日本一低い山(築山という人工的に作られた山)である日和山標高は最高で6.05m、そばには神社もあり、地元の人の憩いの場であっただけでなく、初日の出の絶好なスポットとして人気があったと言います。

この日和山は、明治時代(とはいっても20世紀の初め)に漁業関係者が天候を確認したいために盛り土をしたのが始まりで、仙台港ができたことで本来の目的が失われた後も、先述の通り、地元住民やレジャーに来た観光客の憩いの場となっていきました。


さて、なぜこの山が『元祖日本一低い山』という名称なのかということですが、当初(1991年)国土地理院が測定の結果、日本一低いと認定されたことから『日本一低い山』という看板を立てました。ところが、1996年に地元住民の要請により、大阪府大阪市港区にある天保山が4.53mで日本一低い山と認定されたことから日和山は日本一低いという屋号を名乗れなくなり、慌てて『元祖』という名称を付けることになりました


そんな経緯をたどった日和山は、2011年に起こった東日本大震災による津波で、近くにあった神社と共に消滅したと言われていました。しかしながら、今年4月の調査で3mの標高があることが確認され、18年ぶりに日本一低い山として認定される運びとなりました。


とはいえ、この日本一低い山というのは定義があいまいで、天保山のようにきちんと山としての基準(二等三角点以上の設置)があるため、山の形を成していないながらも日本一低いとされていました
これ以外にも『日本一低い山』を自称する山はいくつかあり、大阪府堺市堺区にある蘇鉄山(6.84m)は一等三角点のある山の中では最も低く、徳島県徳島市にある弁天山(6.1m)は自然に存在する山の中では最も低い山になります。対して、秋田県大潟村にある大潟富士は標高0mながら、海抜ゼロメートル地帯にあるためにそうなっており、実際は富士山の1/1000、3.776mあります(しかも、標高が0mになるように調整されている)。


いずれにしても、日和山が震災の津波にも耐え、周りが無くなってしまった中でも、山の高さを残し、地元の人達へ共に頑張ろうと無言のエールを送っていた事実は変わらないでしょう。これはたとえ日本一低い山としての認定が無くなったとしても、いつまでも残るかけがえのない事実なのですから。


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Posted by alexey_calvanov at 23:08Comments(0)TrackBack(0)