2017年05月19日

東北へ行く2017⑤ 震災遺構 荒浜小学校 後編

SHV32_0811ここから一般公開されていない3階を越え、4階に。
現在交流活動室として使われている5年生の教室に残されている予定表。最後の月である3月の予定が書かれているところを見ると、この学校が最後まで学校としての役割を果たしていたことがわかります
ここでは、荒浜地区の震災前後の姿をNHKのアーカイブ映像から偲ぶことができます



SHV32_0813こちらは、3.11 荒浜の記憶(音楽室)に置かれている津波をかぶった時間で止まっている体育館の時計体育館は、津波で流されています。
その体育館は、かつては避難場所として考えていたものの、チリ沖の大津波が来た時に、大津波が来ることを考慮して、当時の校長が避難対象から外したのだそうです。
ここでは、荒浜地区の震災発生から住民救出までの約2日間のドキュメンタリー映像を見ることができます。当時の緊迫感が伝わる非常に貴重な資料です。



SHV32_0814荒浜の歴史と文化 荒浜小学校の思い出(6年生の教室)では、かつての荒浜地区の姿をジオラマで、かつ小学校の歴史を見ることができます。
この中の荒浜地区のかつての姿を見て、森の中に囲まれた穏やかな場所で、夏は海水浴場の入口としてにぎわっていたんだなぁと。仙台市内にあるとは思えない、のどかな場所だったんですね。



SHV32_0812本当は、屋上から撮ればよかったのですが、そんなことはつゆ知らず、4階から撮った景色。
見てわかるのは、建物という建物はほとんど残っておらず、残っているのは墓だけという、何とも言えない皮肉。



まだバスが来る時間ではないものの、荒浜小学校はもう閉校の時間に。
荒浜小学校は10:00~16:00までで、月曜および第2・第4木曜が基本的に休みになります。他は年末年始や祝休日も休みになります。早くに閉まってしまうので、訪れる際には十分にご注意下さい。


SHV32_0815バスが来る時間まではそんなにないものの、どうしても行きたい場所があるので、小走り気味に向かうことに。
その途中にあるのが、貞山堀(運河)そばにある荒浜の歴史を示す碑。震災前後の荒浜の歴史を知ることができます。



SHV32_0816今回向かいたかったもう一つの場所、それがこの東日本大震災慰霊塔。大きな観音像が建立されています。かつては八大龍王神社という神社がありました。今は鳥居のみ残っています。
この観音像の高さは約9m。この地区に襲った津波と同じ高さになっています。そのそばには、この地区で犠牲になった192人の慰霊碑が置かれています。



SHV32_0817ここには、かつて深沼海水浴場という仙台市唯一の海水浴場がありました。しかし震災以降、沖合がどうなっているのか調査が進んでいないこともあり、現在でも泳ぐことができません。そして、大きな防波堤も作られ、将来近くで防災林や避難施設建設も行われます。
ここの姿も大きく変わることになるでしょう。



SHV32_0818こちらは、荒浜記憶の鐘鐘の正面にも石が置かれており、そこから鐘まで13.7m(津波の最高到達点になる)あるそうです。
場所は、海辺の図書館のそばにあります。



2日目は、仙台市の端から端まで移動するのに膨大なエネルギーを使ったのかなと思っています。朝早くに着いたと思ったのに、気が付いたらもう夕方だったもの。
その膨大なエネルギーは宿泊先に向かう時にも発揮され、バスで旧荒浜小学校から荒井駅まで戻り、そこから再び仙台駅まで。その後は福島県で宿泊先を決めていたので、目的地の郡山市まで新幹線で向かえば早いのですけど、もったいないので、のんびりと在来線で行くことに。
ところが、郡山まで一気に行けるわけではなく、福島を乗り換えて行くことになるわけで。じゃあそこで、福島名物の福島餃子でも・・・と思ったものの、人が多すぎてとてもじゃないけど食べられそうにない乗り換え時間も余裕があったと思ってたのに、あっという間に時間なので、泣く泣く郡山に向かうことになりました。まぁ、郡山で美味いものが食えたら無問題ですけど。


次回は、いよいよ初上陸の福島県を本格的に旅します。


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Posted by alexey_calvanov at 23:10Comments(0)TrackBack(0)

2017年05月18日

東北へ行く2017④ 震災遺構 荒浜小学校 前編

SHV32_0799地下鉄東西線からバスで15分ほど。終点の旧荒浜小学校に到着しました。



SHV32_0800荒浜小学校は1873年に設立されたものの、東日本大震災がきっかけで生徒数が激減今年の3月末で廃校になり、144年の歴史に幕を閉じました。その後は、震災遺構としての保存活動が進められ、4/30から一般公開を開始しています。
写真は、それを記録するために設置された碑。旧荒浜小学校の校歌が記されています。



SHV32_0802校庭には、津波で流された二宮金次郎像が置かれています
元々南西角に置かれてきたものが、津波で流され、8か月後に学校から南西100mほどのところで見つかったそうです。
見ただけで、その破壊力と威力がわかるものです。



SHV32_0801下層階の写真。
見てもらうとわかるように、2階の一部まで津波が押し寄せています。そして、津波が引き寄せたがれきなどがぶつかって、鉄柵がひしゃげています



SHV32_0804側面に回っても同じように、鉄柵がひしゃげ、津波の威力・がれきの破壊力がよくわかります
ちなみに、現在でもこの建物は、被災時の緊急避難ビルとしての役割を担っています



SHV32_0805中に入ると、がらんどうな部屋が続きます。
こちらは1階の教室1年生の教室になっていました。今でこそがらんどうな部屋になっていますけれども、震災当日の津波の押し寄せた後は、奥に車が詰め込まれるほどの力が掛かっているのです。



SHV32_0806その先は非公開部分になっていますが、天井のはがれている姿を見て、その凄惨さを伝えています



SHV32_08072階に上がってみます。
先程、側面で見ていたあのひしゃげた部分を間近で見られるばかりか、コンクリートの壁も破壊されていることがわかります



SHV32_08092階には、津波到達ラインというものがあります。証言の中にもあるのですけれども、足元まで津波が迫ってきたというのがあります。それを示す証拠でもあります。ただ、どうしてもわかりにくい。写真で見てもわかりにくいことでしょう。



SHV32_0810では、こちらをご覧下さい。
職員室に置かれていた用具入れが津波をかぶり、そのかぶった跡だけがさびついているのです。
こちらははっきりと目視で確認できるので、津波がここまで来たのかとわかりやすいのではないのでしょうか。



次回も荒浜小学校を取り上げていきます。


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Posted by alexey_calvanov at 23:24Comments(0)TrackBack(0)