2019年09月09日

沖縄へ行く⑤

翌日、朝早くには目が覚めていたものの、まだまだのんびりしたいなぁ・・・と思っていたら、もう午前8時になっていた。フライトの時刻は午前10時半過ぎ午前10時までには那覇空港に着いていないとマズい。
というわけで、いそいそとホテルを出て、向かった先は、ゆいレール(沖縄都市モノレール線)


ゆいレールというのは、沖縄都市モノレールという第三セクターの会社が運営する鉄道(モノレール)で、鉄道としては日本で最南端かつ最西端にあります(最西端の駅は那覇空港駅、最南端の駅は赤嶺駅)。ちなみに、日本で最南端かつ最西端にある輸送機関は、宮古島にあるペアリフトの「ザ シギラリフト オーシャンスカイ」


ここで沖縄県の鉄道について。
私の子供の頃は、沖縄県は日本で唯一鉄道が通っていないところと教えられたものですが、実際は戦前までは旅客鉄道が、1983年までは貨物鉄道が存在していました。

沖縄県の鉄道運行は1902年に始まりました。場所は沖縄本島の東に浮かぶ南大東島で、島で採れたサトウキビを運搬するためでした。当初はトロッコだったものが、やがて蒸気機関車→ディーゼル機関車に変わっていきました
沖縄本島には1914年に路面電車が現在の那覇市内に敷かれたのを皮切りに、軽便鉄道・馬車鉄道が敷かれていき、バスとの競争に揉まれて無くなった路線もあったものの、概ね維持されていました。

しかし、沖縄戦で全ての鉄道が消滅戦後はアメリカ統治下の中で自動車優先の運営となったため、沖縄本島では鉄道が復活するのは、1975年に開催された沖縄国際海洋博覧会で運行された新交通システムまで待たなければなりませんでしたが、そのシステムも開催期間中のみの期間限定の運行でした。


本格的な復活は1982年までさかのぼります。沖縄の本土復帰の頃から鉄道復活はささやかれていましたが、この年に設立された沖縄モノレール株式会社によって、現実味を帯びてきたのです。しかし、既に走っているバス会社との調整などで建設が遅れ、日の目を見たのは2003年のこと。それでも、モータリゼーションの進んだ沖縄の中で、やっと鉄道が復活したのです。定時運行のできる鉄道への期待は、とても大きいそうです。不安定な経営ながらも沖縄県民および観光客の足になったゆいレールは、10月に延伸が決まっております。
将来的には、LRT(ライトレール・トランジット)方式での路面電車や軌道鉄道の復活も模索されています。


SHV39_5608で、ゆいレールの切符は少し進んでいて、何とQRコードでの読み取り方式になっていたのだ。当初は切符を改札に通す従来の方式だったんですけど、2014年にICカード導入に伴い改良されたそうです。ちょっとビックリした(笑)。切符は降りる駅で改札に読み取った後、改札に据えてある回収カゴに入れます。そこだけ古典的だなぁ(苦笑)。
あ、現在はICカードはOKICAという、ゆいレール独自の物しか使えませんが、2020年からはSuicaなど全国で使えるICカードの導入が決まっています



SHV39_5609こちらは、ゆいレールの車両2003年の運航開始時(最初の車両の製造は2001年)から使われているものです。現在は2両編成で運行しています。
・・・定時運行に期待を持たれていると聞いたけど、実際のところ数分遅れてやって来たさすがにウチナータイム炸裂かと思ったら、乗ってみてわかった。人大杉(大泣)!
たった2両しかなく、休日は10分間隔での運転(乗った時)だもんですから、観光客で埋まってる将来的に3両編成にしていくことが決まりましたけど、こんな理由があったのね。しかも乗り降りに時間が掛かるため、どうしても遅れてしまう。そう、テーゲーでもウチナータイムでもなく私達観光客のマナーのせいなのかもしれないね・・・。



それでも立たされながらも、快適。渋滞を気にせず走れることもさることながら、高架なので眺めも最高。ゆえに観光列車としての側面も持っているだなと思いましたね。上から見る那覇市内や沖縄の景色は、何度でも乗ってみたいと思わせるに十分なものですよ。
運転手も沖縄らしい。私がお世話になったタクシーの運転手もそうでしたが、沖縄を代表する衣装の一つ、かりゆしウェアを着て運転していましたね。ただ、近くにいた若い人が、かりゆしウェアの存在を知らなかったのは残念至極何であんな格好しているんだろう的な言い方をしていたので、もっと沖縄のことを調べてから来いよ・・・と思わされましたね。


SHV39_5614さて、那覇空港に到着。お土産屋などをいそいそ回っていたら、フライト時刻30分前、飛行機まで運んでくれるバスの時間になりそうだった。
写真は、乗る飛行機のそばに停まっていた日本トランスオーシャン航空(JTA)という日本航空(JAL)の系列会社の飛行機ジンベイザメのプリントされた飛行機でした。せっかくFC琉球のスポンサーになってるんだから、ジンベーニョでもよかったような気が・・・(ニヤニヤ)。



2時間少しのフライトで再び中部国際空港に戻ってきました。


あっという間の沖縄でした。正直1泊2日では足らんかったわ(苦笑)。ホントにショートステイ(1週間くらい滞在)するつもりで沖縄には挑まないと足りない足りない。見たいところはいっぱいあるし、美味いものもいっぱい食いたかったわ。何より、帰る日には午後1時から九州リーグに所属している沖縄SVの試合があったんだよね。そう考えると、長期休暇で行きたい気持ちが何となくわかった。来年FC琉球との試合があるなら、また行ってみたいけど、当分無理だろうなぁ・・・(大泣)。


沖縄の行ったところの話は今回までですが、まだまだ沖縄の話は続きます。次回は小ネタというか色々見聞きした話をば。


人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ  

Posted by alexey_calvanov at 23:36Comments(0)

2019年09月08日

沖縄へ行く④

SHV39_5538沖縄平和祈念公園からタクシーでおよそ1時間。那覇市にある首里城にやって来ました。
首里城と言っても、広いところなので、大概最初は入口にあたるこの門からスタートになります。沖縄県で最も有名な建物の一つ、守礼門です。1933年に国宝に指定されたものの、沖縄戦で城と共に破壊され、復元されたのは、アメリカ統治下だった1958年。そして、九州・沖縄サミットの行われた2000年に記念紙幣的に発行された2000円札の絵柄にもなりましたが、利便性の悪さであまり普及しないまま無くなっていきました。ただし、沖縄県だけは異常な普及率を誇り、いまだに沖縄県では流通しているとかATMで出し入れができるとか言われていました。ただ、私が沖縄に滞在していた間、2000円札を見ることは無かったなぁ・・・。もしもらったら早速使ってやろうと思ったんですが(ニヤニヤ)。



SHV39_5543そこから歩いたところにあるのが、歓会門ここからが首里城の城郭内になります。



SHV39_5546さらに歩くと、瑞泉門にたどり着きます。ここは本土で言うところの天守に至るまでの2番目の門になります。
瑞泉とは、立派なめでたい泉という意味だそうです。実際、そばには泉(龍樋)が沸いています
ここから少し急峻な部分になり、階段あたりは急ですわ・・・(汗)。



SHV39_5547瑞泉門から上がったところから見た景色は、こんなふう。いい景色ではあるんですけど、この先もっといい景色が見られただなんて、この時はまだ知らない。



SHV39_5550そこから少し歩くと、見えてきたのが漏刻門と呼ばれる3番目の門高貴な身分の人でも国王の敬意から、駕籠(かご)から降りるのが、このあたりだったそうです。
また、中国語で水時計の意味からもわかるように、時を司る門でもありました。門の上にある櫓に置かれた水槽から水を漏らし、その漏れる量で時間を測ったとされています。時刻がわかるとここから鐘を鳴らし、やがて城中に鳴り広がるのだそうです。後に水漏れでの計測から日時計での計測に切り替わり、その日時計もここに設置されました。



SHV39_5551漏刻門を上がって見えた景色がこちら。
ここから見える左奥の門が歓会門、右側に見えるのが久慶門と言われる女性向けの門。いわゆる通用門でした。



SHV39_5552漏刻門から右に曲がってすぐのところにあるのが、広福門と呼ばれる4番目の門
ここは今では、いわゆる天守に入る際の入場券を買う券売所になっています。



SHV39_5554そして広福門から左に曲がるとあるのが、奉神門という5番目の門ここを入ると、いよいよ天守に入れます。ただし、無料区間はここまで。この先は有料なので、広福門でチケットを購入しなければなりません



SHV39_5555奉神門で券をもぎって入った先には、正殿と御庭(うなー)と言われる場所に。城主のいる場所ですよ。


ここで首里城の歴史をば。
実は、首里城がいつ建造されたのかはわかっていません。ただグスク(城)がたくさん建てられた12世紀~13世紀の間ではないかと言われています(もちろん、こんな立派な城ではなかったと推測されます)。丁度三山時代の中山王国の城として建てられたとされてます。
尚氏によって統一され、琉球王国となった際には、首里が首都とされ、首里城が居城とされました。琉球王国が薩摩藩の従属国下に置かれた後も居城として使われ、ペリー来訪時には、従属国でありながら独自に修好条約を結んでいます

しかし、明治になってからは廃藩置県に伴い、鹿児島県の直接統治→琉球藩→沖縄県と変遷し、沖縄県になったことで琉球王国は無くなります王家の人々は華族となったものの、琉球処分と言われる一連の騒動によって不快感を抱いた一部の王家の人々は、もう一方の従属先になっていた清に助けを求め、結果として清との関係をこじらせることにもなりました
琉球処分後は軍に払い下げられ、学校の敷地になったこともあり荒廃が進み、老朽化もあって取り壊される運命にあったのですが、歴史的価値観を見出されて保存が決まり、1925年に今でいう国宝に指定されます

ところが、沖縄戦によってほとんど全てが破壊され、戦後アメリカ統治下には琉球大学が置かれることになります。
それでも首里城復元はアメリカ統治下の沖縄の人達の悲願だったそうで、統治下にあった1958年の守礼門復元を皮切りに、徐々に再建が進められます1980年代に大学の移転が決まってからは、いよいよ首里城復元計画が始まり、1989年には正殿の復元に着手します。そして1992年に正殿など一部が復元され、首里城公園として再建を果たします2000年には首里城跡として世界遺産にも認定され、2006年には日本の百名城としても選定されました。現在でも復元作業は続いているそうで、まだまだ見どころができるのかもしれません。



SHV39_5566こちらは、寝廟殿の裏手にあたるところ。東(あがり)のアザナの途中あたりです。首里城の裏の部分が見られる場所です。
ちょろっと写っている警備の人に、丁度人が切れたねぇと気さくに話しかけられました(笑)。そうですねぇとちょっと世間話をしておりましたわ。こういうのも面白い。



SHV39_5567そしてこちらが東のアザナ日の昇る場所として見張り台になっていたんですね。もうお分かりだと思いますが、首里城は山城なので、小高い山の上にあるんです。ゆえに景色は素晴らしいんですよ。那覇市内もさることながら、天気がよければ遠方の島々も拝めるのだとか。
先程の漏刻門から伝わった時の知らせをここで受け取り、城内外に知らせる役目もありました。



SHV39_5568最後は、首里杜(すいむい)館という休息所に向かう途中にある首里城跡の史跡碑



SHV39_5569この碑が建立されたのは、首里城跡が史跡に指定された1972年5月15日。つまり沖縄の本土復帰と同じ日に設定されたのです。
当時の沖縄の人の多くは、日本復帰を切望していたと言います。この史跡指定は、本当の意味で本土の一員になったと喜んだことでしょうね。



その後は、一気にタピック県総ひやごんスタジアムへ。沖縄市にあるので、結構距離があるんですけど、沖縄自動車道をビュンビュン飛ばし、途中渋滞に遭いながらも、何と約束の時間だった午後3時にピッタリ到着。これにはビックリしたし、プロだと思ったよ。何せウチナータイム炸裂の沖縄と覚悟していたから、このサプライズはすごかった。ホントにありがとうございました。実に素晴らしいタクシー運転手でした。車中でも沖縄の話をたくさんして頂きましたし、私の実に下らない質問にも丁寧に答えて下さいました。そのあたりはおいおい話していければと思います。


試合終了後は、バスで那覇バスターミナルまで行くことに。ただスタジアムから遠いところにバス停があるばかりか、終バスが試合が終わって数十分しかないので、急ぐ急ぐ。何とか間に合っていざ那覇まで・・・。
・・・いやはや、結構長かった(苦笑)。総じて1時間半ほど乗りっ放し。行きは首里城からというのと高速を使っているからなのもあってか、早かったんだけどねぇ。もし知っていたら、シャトルバス予約していたわいFC琉球戦観戦の際、特に早く帰りたい方はシャトルバスを事前予約しておくことをオススメします。ただし、往復予約になるので、片道切符な方には薦めにくいのが難点

そういえば、沖縄県の路線バスを走っているバスは、ほとんど観光バスと同じ出入口兼任のタイプ入口から乗って出口で降りるという習慣がどうやら無いようです。ゆえに、降車優先なんですけど、乗車の人が乗らんとして運転手に制止される事態がしばしば(爆)。ああ、もうテーゲー(適当)だわ(ニヤニヤ)。なお、2000円札は使えない旨のシールが貼ってあったよ。


その後は沖縄バスターミナルから少しのところにあるホテルにチェックインして、買い出しに。飯を軽く食べて、ぐったりしてたらもう朝だった(泣)。もう少ししたらフライト時刻だったので、いそいそとホテルを後にし、那覇空港に向かうのでした。


人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ  
Posted by alexey_calvanov at 22:41Comments(0)