
もはや枯れてしまったものと見られていたこの木の幹から、枝が出て葉が生い茂ったため、急遽保存を決定。その後、建物の建て替えのため現在地に移植されたもの。
現在でも種子をつけ、その種子は世界中に送られているとのことです。

アオギリの移植されたそばにひっそりと立っています。

原爆で被爆し亡くなったほぼ(確認の取れた)全ての人達の遺影が掲載されており、原爆に関する資料を閲覧したり体験談を聞いたりすることができます。
無料で入れるので、一度訪れてみるべき施設の一つです。

亡くなった直後から全国で建立のための募金活動が起こり、亡くなってから3年後の1958年に建立されました。
その後、風雨にさらされる千羽鶴などを掲示するための保護ブースが設置されたものの、今でも時々折り鶴への放火事件が起こったりするそうです。
思うに、折り鶴への放火は死者への冒涜行為に他なりません。絶対にやめていただきたいものです。

今でも身寄りのない遺骨が預けられているそうです。

そう、何も原爆の犠牲者は日本人だけではない。
当時強制連行で連れてこられたもしくは職を求めやってきた朝鮮人、満州(中国東北部)などから来た中国人、そしてアメリカではいないとされたアメリカ人の捕虜など日本人の数まではいかないものの確実に被爆者として存在しているのだ。
確かにこれは韓国人を追悼する慰霊碑ではあるが、上記の外国人すべてに対して哀悼の意を起こすべきであると私は思います。
この慰霊碑に関しては、元々は李氏朝鮮一族の末裔(まつえい)に当たる人物が亡くなったとされる本川橋の西詰めの北側に設置されていたものを1999年に移築したものだそうです。
しかしながら、この文章中でも韓国人と書いている通り、平和記念資料館東館南側には、朝鮮民主主義人民共和国帰国記念時計という実質当時親などが日本に住んでいた北朝鮮国民達が建てた追悼施設が存在しており、平和を願う公園の中に皮肉なことに南北分断の影が表れているというところも見逃せないでしょう。

中にある鐘はいつでも誰でも鳴らすことができるようになっています。

写真は対岸にある原爆ドームから撮ったもの。原爆のすさまじさを表したいのか、支柱がねじれている設計になっています。
確か「はだしのゲン」の中で、ゲン自身が『記念』の文字で当てられていることいついて激しく憤るシーンがあったかと思います。
私自身、このシーンに大きくは共感できなかった(心情的にはもちろん理解できる)のですが、この場所に来て様々なものを見るにつけ、確かに『記念』という文字には違和感を感じるようになってきました。
この地はあくまで平和を『祈念』する場所、つまり平和について考え、そのために亡くなった犠牲者たちを尊(たっと)ぶ場所であって、平和を『記念』する、つまり平和を思い出に残し祝う場所ではないのです。
それゆえに、本来ならば沖縄にある平和祈念公園(沖縄戦跡国定公園)のように書くべきではないのかと思えてならないのです。
そんな複雑な気持ちの中で、平和記念公園を後にしたのでした。
平和記念公園の最寄り駅の一つである原爆ドーム前電停から一気に広島駅前まで向い、そこで遅い昼食を食べ、いよいよ今回の3つ目の目的になる野球観戦のために今年完成した現在の広島市民球場、MAZDA Zoom-Zoomスタジアム広島に向かうのでした。
その模様は次回に。