2019年09月06日

沖縄へ行く②

SHV39_5528那覇空港からおよそ40分、糸満市にあるひめゆりの塔とひめゆり平和祈念資料館に着きました。
太平洋戦争の中で最も苛烈だったとされる沖縄戦とその中に巻き込まれた女子学徒隊の悲劇を語り継いでいく場所でもあります。とはいえ、今は観光スポットとしての側面が非常に強く、入口近くには花屋(お供えの花を売るだけの店)と土産物屋と食堂がありました。仕方ないとはいえ、戦争は遠くになりにけりと思わされます。

写真には収めていませんが、入口のそばにはガマ(洞窟)があり、マングローブの木が生えていました。このあたりで生えるのは珍しいそうです。ご存じ、他の木に寄生すると絡み付いて絞め殺す、あの木です。



SHV39_5527入口にはひめゆりの塔の記という石碑があります。ひめゆりの塔がなぜ建てられたのかというのを書いているものだそうです。



SHV39_5526沖縄戦がどのような展開を見せたのかという図。ひめゆり平和祈念資料館にも同じものはあります。
4月にアメリカ軍が沖縄本島中西部に上陸。日本軍を南北に分断していく中、日本軍はガマの中にこもり、塹壕戦やゲリラ戦といった持久戦を敷いてきました。無駄に長引かせた中でも、6/23に沖縄にいた沖縄守備軍の最高司令官の自決によって遂に終わるかと思われたものの、司令官の解散命令で前線に放り出された女子学徒隊・鉄血勤皇隊(いわゆる少年兵)・生き残った日本兵と一般市民が路頭に迷う結果になり、かつアメリカ軍への投降は最も屈辱的な行為として、自決を選んだり、アメリカ軍に詰め寄ったり攻撃を挑んだりして殺される結果となりました。アメリカ軍に無差別に殺された人ももちろんいます。



SHV39_5521こちらがひめゆりの塔。しかし、ひめゆりの塔というのは、右下にある石碑とも言える部分になります。
こちら、戦後すぐに建てられたもので、物資不足・アメリカ占領下だったという事情もあり、この姿になったと言われています。
じゃあ、奥にあるものは何なのかというと、ひめゆり学徒隊と言われる女子学徒隊の納骨堂。つまりは慰霊碑なのです。
この納骨堂も、戦後ひめゆり学徒隊の親が、壕の中で探した死んだ娘の遺骨を納めるために建造されたものです。

なお、ひめゆり学徒隊とは、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒達を指し、沖縄師範学校の校誌だった「乙姫」と沖縄県立第一高等女学校の校誌だった「白百合」を組み合わせた名が由来になっています。平仮名で書かれるのは戦後になってからで、花の名前であるヒメユリとは関係ないそうです。



SHV39_5522納骨堂のそばには、ガマがあり、沖縄陸軍病院第三外科壕として機能していきました。とはいっても、ただのほら穴なのは明白で、治療行為も限定的だったと思われます。また、深い穴の中ということもあり、はしごでの移動を強いられていました。そして何より、元々そこには地元の人達が防空壕代わりに使っていたガマでもあったのです。そのガマを日本軍が強制徴用してしまったのです。



SHV39_5524少し進んだところに、ひめゆり平和祈念資料館があります。
ひめゆり部隊および女子学徒隊の成り立ち、沖縄戦に向かうまでの日本の歴史、沖縄戦の概要とその悲惨さ、そして亡くなった226人全ての経歴と最期、ひめゆりの塔以外の慰霊碑の場所が記載されています。



SHV39_5525出たところにあるのが、沖縄戦戦没者の慰霊碑。



とにかく一言。むごい、酷い。それ以上の言葉が思い浮かびませんでした。
たった数ヶ月で沖縄県の当時の人口の1/4が亡くなったとされており、中でも6/23の解散命令後に亡くなった人が最も多いというのですから、何を言えばいいのだと。さらに、沖縄戦は本土防衛戦という位置付けで、悪く言えば、沖縄は捨て駒で、そこの住民はどうとも思っていなかったとも取れるのです。
沖縄戦のむごさは歴史では知っていたものの、ここまでとは思っていませんでした。改めて戦争の悲惨さ、二度と起こしてはいけないものだと痛感させられます。


そして、この後は数km離れた沖縄平和祈念公園に向かいます。


人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

Posted by alexey_calvanov at 23:30│Comments(0) とっくしゅ~で~す | 真面目なモノ

コメントする

名前
 
  絵文字