ボスニア・ヘルツェゴビナは、今大会唯一の初参加国。普通だったらそこで終わりなのですが、この国を取り巻く環境は、それだけで終わらせてくれません。
世界史で習った方もいるでしょうかの国、ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年旧ユーゴスラビアから独立したものの、独立の際にそこに住んでいたムスリム(ボシャニク)人・クロアチア人・セルビア人との間で武力抗争が勃発。以降3年間血で血を洗う民族紛争(ボスニア内戦)になったのです。当時、首都のサラエボがセルビア人勢力に囲まれ、郊外の丘からムスリム人やクロアチア人をスナイプする姿や各都市から見つかる大量虐殺の跡は、昨日までの仲良き隣人が、今日になったら殺し合うという人間としてあるまじき異常なものを見た・・・そんな感覚を持っている方も多いのではないのでしょうか。
そんな内戦がアメリカやEUの仲介によって終わった後も、国はムスリム人とクロアチア人が集う地域とセルビア人が集う地域とに分割。その象徴として民族ごとに設立された国内サッカー協会がありました。国家としての体は何とか保ててはいたものの、国の中のベクトルは全くもってバラバラになっていたのです。当然過去の大会は全て予選落ち、あまつさえ前述の出来事であわや予選も出場できない事態に陥ったのです。
その事態を打開しようと粉骨砕身したのが、元日本代表監督でもあるオシムさん。彼は国の有力者などにも掛け合い、統一された国内サッカー協会の設立を訴えて回りました。日本代表監督中に脳梗塞に襲われ、半身が一部マヒ状態という身体なのにもかかわらず、それを押して回ったのです。その背景には、やはり民族で振りまわされた旧ユーゴスラビアの末路を最も感じ取っていたからなのでしょう。
かつてオシムさんは旧ユーゴスラビア代表監督を務めていた時もありました。その頃の旧ユーゴスラビアは、民族自決の動きが活発化し、民族主義の台頭と国家の崩壊の危機にありました。それをサッカーを通じて何とか変えようとしたのですが、その思いとは裏腹に民族主義はより先鋭化し、遂には国家崩壊に突入しました。そしてオシムさんの故郷であるボスニア・ヘルツェゴビナが内戦に突入した際、それに抗議して代表監督を退任したのです。ゆえに、民族の意識を薄めさせ、国家の融合のためにできることをサッカーを通じて託したのです。
その努力とオシムさん自身がボスニア・ヘルツェゴビナの英雄ということもあり、統一された国内サッカー協会は設立。無事に代表は予選に出場できるようになりました。そして、オシムさんの想いが伝わったのか、予選では攻撃力の高いサッカーで勝ち進み、見事に予選を突破。ブラジル行きを掴んだのです。3民族の障壁を乗り越え、3民族の想いを一つにして勝ち得たものでした。
ワールドカップ本戦、予選1次リーグはアルゼンチン・ナイジェリア・イランという強豪の中で争うことになりました。勝ち進むのは難しいという下馬評通り、予選通過はなりませんでした。
しかし、アルゼンチン戦ではメッシ選手にほとんど仕事をさせず、オウンゴールさえなければ引き分けで終わっていたのではないかという健闘した試合になりました。
ナイジェリア戦は不運なオフサイドで勝ちを逃してしまいました。これも判定がオフサイドとならなければ引き分けの可能性もありました。動きは終始よろしくなかったものの、ナイジェリアを苦しめたのは否めません。
そしてイラン戦では実力以上の力を出したのではないかと思います。サッカーを知らない人間でさえも、過去2試合よりも動きにキレがあり、持ち味である攻撃的サッカーが行えていたのではないかと思いました。終始イランを圧倒していたと思います。これまでの想いをぶつけて掴んだ歴史的1勝。ボスニア・ヘルツェゴビナが一つになるための第一歩となる勝利だと思います。
ボスニア・ヘルツェゴビナのサッカーはこれからだと思います。
今後も民族が互いに手を取り合い、次の大会に進めるよう努力を積み重ねてほしいものです。なので、今こそ民族で見るのではなくボスニア・ヘルツェゴビナ国民として見られるように国内が変わるべき時なのです。ふがいないからと言って再び分裂の危機に陥るようなことになってほしくありません。なぜなら日本代表でも成し得なかった初出場で初勝利を挙げられたのですから、これを誇りに糧に生きてほしいのです。やればできるのだと。

