2012年12月28日

Sayonara, Godzilla

年の瀬も迫る中、そして仕事納めだった人も多いこの日に、1人の選手がバットを置くという『仕事納め』を行いました
日本では巨人で活躍、アメリカ・大リーグではヤンキース・アスレチックスなど4球団で活躍した松井秀喜選手が引退を表明しました。


松井選手は、石川県の星稜高校で超高校級スラッガーとして話題を集めました当時対戦相手が5打席連続敬遠を行ったことでも松井選手が大物であるという認識が一気に高まったと思います。

プロ入りすれば即戦力間違いなしと言われてもおり、各球団争奪戦(本人の希望は阪神・巨人・中日・ダイエー(現ソフトバンク))になりましたが、結果巨人がくじ引きで交渉権を獲得しました
巨人入団後は、1年目の5月から1軍入り。1年目自体はエレベーター生活を送ったものの、まずまずの活躍を収めています。覚醒したのは2年目以降で、首位打者1回・本塁打王3回・打点王3回を獲得する名スラッガーに成長しました。

2003年に大リーグ入り。ヤンキースでワールドチャンピオンに輝いた後も、エンゼルス・アスレチックス・レイズで活躍しました。しかし、度重なるけがと年齢面での衰えが響き、レイズを解雇された後はどこの球団からもオファーが来ず、引退を決意したと思われます。


松井選手はとにかく豪快かつパワーあふれるバッティングが特徴的でしょう。その強烈な当たりは王さんなどをしのぐとさえ言われたほど。実際にスイングを生で見える機会は最後までなかったですが、テレビの映像で見る限り、今でもその迫力はすごいと思います。これも長嶋終身名誉監督が監督時代に二人三脚で松井選手を育成した結果であり、長嶋イズムが松井選手に浸透したのでしょう。

日本に戻って野球選手を続ける手もあったと思いますし、実際阪神が獲得に動いているという噂が常に付きまとっていました。しかし、本人自身がその思いを断ち切ったというのが、いかにも松井選手らしいとも感じましたね。5打席連続敬遠の時も、自身は恨み節もなく淡々と答えていましたし、気持ちの切り替えが上手い選手だったのかもしれません。
ただ、今年の大リーグの成績または3Aの成績が満足いくものではなかったので、恐らく日本でも満足できるプレーができないまま選手を終えることになったのかもしれません。そうなると松井選手のプライドが傷ついたまま終えることにもなるので、ここで上手いこと引いたとも言えるでしょう。


ところで、今年は金本選手・城島選手をはじめ、名選手や人気選手が相次いで引退した年になりました。
私がよく知る選手がいなくなることで、寂しいと思うばかりか、そういった選手達がフィールドを去るほど私も年を取ったのだなと痛感しております。時の流れはゆったりとしているようで意外に早いのですね。


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Posted by alexey_calvanov at 19:47Comments(0)TrackBack(0)

2012年07月24日

栄転か左遷か

今週は度肝を抜くことが多いなぁ・・・。


大リーグのシアトル・マリナーズに所属していたイチロー(鈴木一朗)選手が突如ニューヨーク・ヤンキースに移籍(若手2投手との交換トレード)することを明らかにし、日本時間の午前8時に記者会見を行いました。
丁度試合の3時間前ということもあり、様々な思いが駆け巡る中での記者会見になったのか、普段以上に言葉を選び運んでいた、かつ目には涙を浮かべていたのではないかというふうに思わせる潤みがあったイチロー選手が印象的でした。

試合にはニューヨーク・ヤンキースのメンバーとしてフル出場。第1打席でセンター前ヒットを放ち、その後盗塁も決めました。試合も1-4で勝利し、イチローの再出発は華々しいものになりました。


しかし、この記者会見も試合も、自身が11年以上本拠地として活躍していたセーフコ・フィールドで行われたもの。そのため、かつての本拠地で昨日までチームメイトだった仲間達と対戦することになったばかりか、スタメン出場とは言えども、ライトで8番(通称ライパチ)での出場に、いくらアメリカの社会はドライとはいえ、この『仕打ち』は屈辱的なのではないかとさえ思ったほどでした(ただ、イチロー選手にとって、そんなことは意に介さずだとは思いますが・・・)。


イチロー選手がマリナーズから出て行った理由は、若手を積極的に利用してほしいという部分に尽きると思います。いみじくもイチロー選手自身も会見上で「20代前半の選手が多いこのチームの未来に、僕がいるべきではない」とも話しています。かねてからトレードの噂は消えていなかったわけですが、その噂が消えない理由はGMが若手を積極的に使い、ベテランを放出していたということからも伺えます。その方針をイチロー選手自身敏感に感じ取って、トレードを志願した(数週間前から若手との交換トレードを志願していたという報道もある)のではないかと思います。
自身の環境の変化を求め、敢えて野球に厳しい球団でもあるニューヨーク・ヤンキースに移ったイチロー選手。マリナーズで成しえなかった夢を叶え、自らの高みをより極めてほしいものです。


なお、日本人大リーグ選手の反応はというと、ダルビッシュ選手はこんなものだという主旨のコメントを残し、松坂選手はやや興奮気味な主旨のコメントを残しています
エールを送る選手もいる中、一番印象的なのは、イチロー選手の背中を追って富も名誉も捨て、マイナーから這い上がって来た川崎選手ノーコメントにしてほしいというくらいにショックを受けていました。イチロー選手自身も気に掛けていたようで、(イチロー選手自身が)他に移っても一緒にやることは変わりないと気遣う主旨のコメントを残していました移籍を踏み切るか否かの段階で、最後まで川崎選手のことを考えていたみたいです。
川崎選手にとって、約半年イチロー選手とやって来たことは十分な糧になるはずです。ヤンキース戦の時には、イチロー選手を驚かすくらいの活躍をすることで、彼の恩返しになるのではないのでしょうか。


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Posted by alexey_calvanov at 22:52Comments(0)TrackBack(0)

2011年07月29日

その人生は、持ち味のスピードボールのように早く・・・

元プロ野球選手で、ロッテ・阪神とアメリカ大リーグのヤンキースなどで活躍した伊良部秀輝さんが自殺したという報道が入ってきました。


伊良部さんは1987年のドラフト1位でロッテ(当時はロッテ・オリオンズ)に入団。当時は弱小だったロッテで、かつお世辞にもいい球場ではなかった川崎球場で投げていました。その頃は谷間の先発やリリーフで投げていたというふうで、速球選手という触れ込みはあったものの、安定した選手とは言えないふうでした。

大きく変わったのが、幕張の千葉マリンスタジアム(現:QVCマリンフィールド)へ本拠地を移した千葉ロッテマリーンズ時代
持ち前の速球に磨きをかけ、打者を翻弄する大投手になっていました。特に清原さんとの勝負は今でも語り継がれてますし、当時最高時速だった158km/hを投げ込むという『伝説』をも作りました(その後、156km/hのストレートを清原さんが打ち返すというオチまで付けましたが)

速球に見られるように、気性の荒い選手としても知られていました。
マウンドを降りるよう言われると、グローブと帽子をスタンドに投げ入れる、ファンに向かってつばを吐きつける(後に、審判に向かってやったことと本人が釈明)、引退後の暴行事件などなど。
しかし一番伊良部さんを有名にしたのは、1996年に起こったヤンキースへのトレード騒動でしょう。
当時、大リーグへの移籍を望んでいた伊良部さんはロッテと交渉ロッテサイドは外国人選手獲得のために、既にパドレスへ独占契約権を締結していました。ところが、ヤンキースへの入団を熱望する伊良部さんは代理人を立てこの入団を拒否し、その年のオフのちょっとした騒動になりました。
結局、伊良部さんは念願のヤンキースに三角トレード(プラス金銭)で移籍することになりました。

大リーグ時代は、様々な苦労をしたものの、先発とクローザー(抑え)として活躍しました。やっとクローザーとしての芽が出かけた時に肺血栓を患い大リーグを去ります。

2003年・2004年は阪神で活躍。中でも2003年の阪神優勝の際には先発ローテーションの一角として活躍しました。そして2005年の春、1度目の引退をします。


1度目の引退の後は、アメリカに再度渡り、高校時代よく味わったうどんを糧にうどん店を開く実業家になりました。人気店にはなっていたものの、リース契約が切れたという理由で閉店してしまいます


その後、投球フォームを改良したことで、もう一度プロへの道を進めるのではないかと思い、アメリカの独立リーグや四国・九州アイランドリーグ(現:四国アイランドリーグplus。日本の独立リーグ)を渡り歩いたものの、四国・九州アイランドリーグで患った腱鞘炎が原因で2度目の引退を決めることになりました。


2度目の引退後は、日本で解説者をしていた時期やアメリカで子供たちに野球を教えたり草野球に参加したりしたことがあったものの、基本的にはアメリカ・ロサンゼルスに在住し、何もしていなかったそうです。

そして、先日伊良部さんが、チームメイトに見つけられる形で亡くなっているのが確認されたそうです。首つり自殺ではないかと言われています。


現役時代や騒動を聞く限り、とてもそう言った結末をたどる人には思えませんでした。
ただ、こうなるかもしれない理由はあったのかもしれません面白い選手だという評価も仲間内からあったものの、気難しいところがあった点、2度目の引退以降何もしていなかったことが多かったという「燃え尽き症候群」的な面が垣間見えた点がその理由です。
亡くなる数週間前にも、週刊SPA!のインタビューにも答えていました(しかも別の目的で買っていて偶然持っていた)。
その中で、トレード問題はルールに則って行動したのにメディアコントロールに失敗したと嘆いたこと父親がアメリカ人だったことをアメリカに渡って初めて知ったこと、スライダーなど横の変化球がないと立派な投手になれない話、野球に携わるなら3軍のコーチになって長いこと選手を育てる立場になりたい話、日本に帰りたい話などをしていました。
もしかしたら、死ぬ前に日本に帰りたかったのかもしれません日本で野球に携わりたかったのかもしれません。そう思うと、なぜ死んでしまったのか、やるせない思いでいっぱいです。
彼なら、教え下手だったとしても、彼の生きたプロ人生は絶対に若い選手への糧になったと思います。特にこれからプロになりたい子供や社会人の人達にはいい教訓を与えられたと思います。


ご冥福をお祈り致します。あの世で往年の選手達と楽しく野球をやって盛り上げて下さい。


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Posted by alexey_calvanov at 23:19Comments(0)TrackBack(0)