2012年10月15日

殿下、逝く

カンボジアの近現代史を語る上で必要欠かせない人物、それはシアヌーク前国王。一般的には国王の地位を父に譲ってから名乗っていた『殿下』の名称の方が印象的な人が多いのではないのでしょうか。
激動のカンボジア近現代史をくぐり抜けてきたシアヌーク殿下ことシアヌーク前国王が10/15に北京の病院で亡くなりました。とみに、ここ数年はガン治療のために北京にいることが多く、カンボジアの地で骨をうずめることは叶わない中で亡くなったとも言えます。


シアヌーク前国王は、フランス統治下のカンボジア(フランス領インドシナ)で生まれ、ベトナムに留学中だった18歳の時に、当時の国王の崩御により国王の地位に就くことになりました。日本が太平洋戦争に進まんとしていた1941年4月のことです。
その後、日本の統治下に置かれた後も独立運動を展開し、戦後一旦フランスの統治に戻った後も一貫して独立運動を指揮していたと言います。1949年にフランスから一部を除いて自治権を得た(事実上の独立を果たす)ものの、完全独立を果たすまで抵抗運動を続け、根負けしたフランスが完全独立を認めたという経緯があることから、今でも独立の父として熱狂的な支持があります。そのため、カンボジア通貨のリアルにはシアヌーク前国王の肖像画が描かれています

独立後はカンボジア王国の国王としての生活を送っていたものの、立憲君主制だった当時のカンボジアでは政治手腕を発揮できないということで、1955年に国王を父親に譲って退位。自ら仏教と王制を融合した社会主義政党を率いて事実上の独裁体制を敷いていました

インドシナ半島がアメリカとベトナムによる戦争(ベトナム戦争)に巻き込まれる中でも平和を維持していたカンボジアも、1970年に遂に巻き込まれます親米派のロン・ノル将軍によるクーデターで王制が廃され、シアヌークは外遊先の中国に留まざるを得なくなりました。そこでは亡命政府を設立し、復帰の機会を伺っていました

1975年、ベトナム戦争終了と同時にポルポト率いるクメールルージュがカンボジアを席巻。晴れてシアヌークは国家元首として復帰するのですが、王宮内で事実上の軟禁生活を送ることになり、翌年病気療養を理由に辞任して以後は動静が伝えられなくなり、生死がわからなくなる事態になったこともあります。

1979年にヘン・サムリンとベトナム軍によってクメールルージュが崩壊すると、ソン・サン派と共に連合政府を結成。以降、1990年まで内戦状態に陥っていました。

ベトナムでドイモイ政策が起こるとカンボジアにいるベトナム軍が撤退。そのことでカンボジアでの内戦は急速に収束し、1990年にシアヌーク、ソン・サン、フン・センによる国連カンボジア暫定統治機構が発足1993年に行われた総選挙以降、新生カンボジア王国の国王に就任し、国内の調整役としてポルポト派地域の平定に努めるなど多難だったカンボジア再生に奮闘していきました。国王就任期間、一時的に不安定な時期もあったものの、概ね政治面では安定し、国外からの投資も徐々に回復。カンボジアは成長路線を走り始めることになります。

2004年、ガン治療を理由に息子に譲位し退任。以後は北京とカンボジアを往来する日々を送っていました。


私自身、激動のカンボジアでイニシアチブを発揮し、独立から混乱期を経て再度国家元首に復帰するというある意味ドラスティックな人はもう出てこないだろうなと思います。こういう人はカリスマを発揮するというより人徳で国内を上手いこと治めていったんだなと思えてなりません。
人によっては社会主義政治家ということで眉をひそめる人がいますけど、当時の時勢を考えれば、いかに国民を手っ取り早く豊かにするためには社会主義政策はあまり間違ったことではないと思っています。問題はその社会主義が過度に進み過ぎることであって、上手いこと民主化を行っていけばいいわけなんですよ。シアヌークは国王になった後も介入せずに周りの政策を立てていたようですし。


道半ばなカンボジアの発展を見ぬままに亡くなったのが悔しくてならないでしょう。
激動の時代を率いた前国王に哀悼の意を申し上げたいと思います。


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Posted by alexey_calvanov at 23:56Comments(0)TrackBack(0)