気に掛ったのは、前日通行止めで迎えなかった南三陸方面が向えるかどうか。さすがに不安だったので、バスターミナルの案内で確認したところ、無事運行しているとのこと。それを聞いて自動券売機で切符をあらかじめ買っておいて、バスに乗り込む。

しかしながら、写真のように、津波の影響が徐々に表れ始める。これは津波によって流されてしまったJR気仙沼線の一区画。
バスが南三陸町の沿岸部に差し掛かると、周りの景色が急に開けてくる。
いや、開けていると書くのはおかしいのかもしれない。正確には何も無くなってしまっているのだ。
ご存知の通り、南三陸町は東日本大震災による津波で沿岸部が壊滅。そこで残った建物は数件レベルで、残った建物も全壊ないは半壊と言っても過言ではないだろう。これから紹介する写真にもいくつか写っていると思うので、確認して頂ければと。
バスは南三陸町中心部の最寄り停留所になる志津川十日町に着く。
しかし、そこも何もない。ただバス停だけがそこにあるだけ。

その信号機は、電気が復旧していないため、太陽電池が設置されている。恐らく雨の時にはディーゼルなどで自家発電をして点灯させているのだと思われ。
ここでの最大の目的地は南三陸町役場。正確には防災対策庁舎に向かうわけだが、その建物は意外にもあっけなく見つかる。
しかし、そこへ向かう道のりが容易ではない。川向になるのでどうしても最寄りの橋を渡らなければならず、その肝心最寄りの橋が流されており、少々遠めの橋(最寄りの橋から約数百m)から渡らなければならないのだ。

報道でも有名になった公立志津川病院跡とスーパー。およびアパートなど。

建物のあったと思われる場所には、何も残っていない。

あの日、大量のがれきが八幡川を中心に押し寄せたばかりか、黒い津波が町の沿岸部を覆い尽くした。それは沿岸部に建っていたあらゆる建物が流されてしまったのだ。
欄干の曲がった八幡橋を渡ると、いよいよ今回の目的地の一つだった南三陸町役場(災害対策庁舎)にたどり着く。

見てもらうとわかるが、周囲の建物はほとんどない。
周囲には町役場の本庁舎等もあったようだが、先述の津波で全て押し流されている。
残ったこの庁舎も骨組みだけだ。
当日は大勢の人がここを訪れていました。南三陸町のボランティア(周辺案内)の方も見えたようです。

あの日は骨組みだけになった庁舎に大量のがれきが突き刺さり、無残な姿になっていたそうです。

非常階段は津波でひしゃげている。
あの日、避難した職員が一気に非常階段から屋上に駆け上がったものの、庁舎のほぼ全体が水没。避難した職員達は必死に屋上の欄干やアンテナにしがみついたそうだ。それでも大勢の人が亡くなっている。それだけ津波の力のすさまじさがわかる。
そして、必死に逃げるようアナウンスした『天使の声』はここから発せられていたのだ。
その彼女も、津波襲来数分前に非常階段を駆け上がったものの、間に合わず命を落としたという。
実際この建物を見た時、思った以上に小さかったことに驚いたのと同時に、よくここまで耐え抜いたものだと感心さえもした。
周辺の建物があるというのを後に知り、実際の建物はそう小さくないのかもしれない。でも、これを見る限りでは12畳くらいの大きさしかないんじゃないかと思えるほど小さいのだ。
しかしながら、失われた命と生き延びた命、共にそれを語る上では非常に重要な建物とも言えるのは間違いない。小さいながらも生死を分けた館になったのだ。
献花台の前には多くのお供えが置かれていた。もし、お供えを置く際に注意してもらいたのが、お金を添えるのは控えてほしいという点だ。もしお金をお供えしたい場合は、山麓に移転している仮設の町役場へ渡した方がいいのかもしれない。恐らく具体的な注意事項が献花台の前に書かれていたはずです。
ここで起こった全ての事象を心に留め、深い哀悼の意を捧げたのは、言うまでもない。心に刺さり、今でも辛い。

迂回できる道が無ければ、足元はびしょ濡れになっていたに違いない。
この後、一旦JR代行バスの場所を確認するために周囲を徘徊。志津川駅の場所がわかり、それと同時にバス停の場所も確認できたため、時間まで町内を見て回ることにした。
次回は、その町中の様子と志津川駅の様子を伝えていく予定です。

