2019年09月08日

沖縄へ行く④

SHV39_5538沖縄平和祈念公園からタクシーでおよそ1時間。那覇市にある首里城にやって来ました。
首里城と言っても、広いところなので、大概最初は入口にあたるこの門からスタートになります。沖縄県で最も有名な建物の一つ、守礼門です。1933年に国宝に指定されたものの、沖縄戦で城と共に破壊され、復元されたのは、アメリカ統治下だった1958年。そして、九州・沖縄サミットの行われた2000年に記念紙幣的に発行された2000円札の絵柄にもなりましたが、利便性の悪さであまり普及しないまま無くなっていきました。ただし、沖縄県だけは異常な普及率を誇り、いまだに沖縄県では流通しているとかATMで出し入れができるとか言われていました。ただ、私が沖縄に滞在していた間、2000円札を見ることは無かったなぁ・・・。もしもらったら早速使ってやろうと思ったんですが(ニヤニヤ)。



SHV39_5543そこから歩いたところにあるのが、歓会門ここからが首里城の城郭内になります。



SHV39_5546さらに歩くと、瑞泉門にたどり着きます。ここは本土で言うところの天守に至るまでの2番目の門になります。
瑞泉とは、立派なめでたい泉という意味だそうです。実際、そばには泉(龍樋)が沸いています
ここから少し急峻な部分になり、階段あたりは急ですわ・・・(汗)。



SHV39_5547瑞泉門から上がったところから見た景色は、こんなふう。いい景色ではあるんですけど、この先もっといい景色が見られただなんて、この時はまだ知らない。



SHV39_5550そこから少し歩くと、見えてきたのが漏刻門と呼ばれる3番目の門高貴な身分の人でも国王の敬意から、駕籠(かご)から降りるのが、このあたりだったそうです。
また、中国語で水時計の意味からもわかるように、時を司る門でもありました。門の上にある櫓に置かれた水槽から水を漏らし、その漏れる量で時間を測ったとされています。時刻がわかるとここから鐘を鳴らし、やがて城中に鳴り広がるのだそうです。後に水漏れでの計測から日時計での計測に切り替わり、その日時計もここに設置されました。



SHV39_5551漏刻門を上がって見えた景色がこちら。
ここから見える左奥の門が歓会門、右側に見えるのが久慶門と言われる女性向けの門。いわゆる通用門でした。



SHV39_5552漏刻門から右に曲がってすぐのところにあるのが、広福門と呼ばれる4番目の門
ここは今では、いわゆる天守に入る際の入場券を買う券売所になっています。



SHV39_5554そして広福門から左に曲がるとあるのが、奉神門という5番目の門ここを入ると、いよいよ天守に入れます。ただし、無料区間はここまで。この先は有料なので、広福門でチケットを購入しなければなりません



SHV39_5555奉神門で券をもぎって入った先には、正殿と御庭(うなー)と言われる場所に。城主のいる場所ですよ。


ここで首里城の歴史をば。
実は、首里城がいつ建造されたのかはわかっていません。ただグスク(城)がたくさん建てられた12世紀~13世紀の間ではないかと言われています(もちろん、こんな立派な城ではなかったと推測されます)。丁度三山時代の中山王国の城として建てられたとされてます。
尚氏によって統一され、琉球王国となった際には、首里が首都とされ、首里城が居城とされました。琉球王国が薩摩藩の従属国下に置かれた後も居城として使われ、ペリー来訪時には、従属国でありながら独自に修好条約を結んでいます

しかし、明治になってからは廃藩置県に伴い、鹿児島県の直接統治→琉球藩→沖縄県と変遷し、沖縄県になったことで琉球王国は無くなります王家の人々は華族となったものの、琉球処分と言われる一連の騒動によって不快感を抱いた一部の王家の人々は、もう一方の従属先になっていた清に助けを求め、結果として清との関係をこじらせることにもなりました
琉球処分後は軍に払い下げられ、学校の敷地になったこともあり荒廃が進み、老朽化もあって取り壊される運命にあったのですが、歴史的価値観を見出されて保存が決まり、1925年に今でいう国宝に指定されます

ところが、沖縄戦によってほとんど全てが破壊され、戦後アメリカ統治下には琉球大学が置かれることになります。
それでも首里城復元はアメリカ統治下の沖縄の人達の悲願だったそうで、統治下にあった1958年の守礼門復元を皮切りに、徐々に再建が進められます1980年代に大学の移転が決まってからは、いよいよ首里城復元計画が始まり、1989年には正殿の復元に着手します。そして1992年に正殿など一部が復元され、首里城公園として再建を果たします2000年には首里城跡として世界遺産にも認定され、2006年には日本の百名城としても選定されました。現在でも復元作業は続いているそうで、まだまだ見どころができるのかもしれません。



SHV39_5566こちらは、寝廟殿の裏手にあたるところ。東(あがり)のアザナの途中あたりです。首里城の裏の部分が見られる場所です。
ちょろっと写っている警備の人に、丁度人が切れたねぇと気さくに話しかけられました(笑)。そうですねぇとちょっと世間話をしておりましたわ。こういうのも面白い。



SHV39_5567そしてこちらが東のアザナ日の昇る場所として見張り台になっていたんですね。もうお分かりだと思いますが、首里城は山城なので、小高い山の上にあるんです。ゆえに景色は素晴らしいんですよ。那覇市内もさることながら、天気がよければ遠方の島々も拝めるのだとか。
先程の漏刻門から伝わった時の知らせをここで受け取り、城内外に知らせる役目もありました。



SHV39_5568最後は、首里杜(すいむい)館という休息所に向かう途中にある首里城跡の史跡碑



SHV39_5569この碑が建立されたのは、首里城跡が史跡に指定された1972年5月15日。つまり沖縄の本土復帰と同じ日に設定されたのです。
当時の沖縄の人の多くは、日本復帰を切望していたと言います。この史跡指定は、本当の意味で本土の一員になったと喜んだことでしょうね。



その後は、一気にタピック県総ひやごんスタジアムへ。沖縄市にあるので、結構距離があるんですけど、沖縄自動車道をビュンビュン飛ばし、途中渋滞に遭いながらも、何と約束の時間だった午後3時にピッタリ到着。これにはビックリしたし、プロだと思ったよ。何せウチナータイム炸裂の沖縄と覚悟していたから、このサプライズはすごかった。ホントにありがとうございました。実に素晴らしいタクシー運転手でした。車中でも沖縄の話をたくさんして頂きましたし、私の実に下らない質問にも丁寧に答えて下さいました。そのあたりはおいおい話していければと思います。


試合終了後は、バスで那覇バスターミナルまで行くことに。ただスタジアムから遠いところにバス停があるばかりか、終バスが試合が終わって数十分しかないので、急ぐ急ぐ。何とか間に合っていざ那覇まで・・・。
・・・いやはや、結構長かった(苦笑)。総じて1時間半ほど乗りっ放し。行きは首里城からというのと高速を使っているからなのもあってか、早かったんだけどねぇ。もし知っていたら、シャトルバス予約していたわいFC琉球戦観戦の際、特に早く帰りたい方はシャトルバスを事前予約しておくことをオススメします。ただし、往復予約になるので、片道切符な方には薦めにくいのが難点

そういえば、沖縄県の路線バスを走っているバスは、ほとんど観光バスと同じ出入口兼任のタイプ入口から乗って出口で降りるという習慣がどうやら無いようです。ゆえに、降車優先なんですけど、乗車の人が乗らんとして運転手に制止される事態がしばしば(爆)。ああ、もうテーゲー(適当)だわ(ニヤニヤ)。なお、2000円札は使えない旨のシールが貼ってあったよ。


その後は沖縄バスターミナルから少しのところにあるホテルにチェックインして、買い出しに。飯を軽く食べて、ぐったりしてたらもう朝だった(泣)。もう少ししたらフライト時刻だったので、いそいそとホテルを後にし、那覇空港に向かうのでした。


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Posted by alexey_calvanov at 22:41Comments(0)