5/4は、仙台から気仙沼を経て、岩手県の陸前高田へ、再度気仙沼から仙台に戻るというルートで回ってきました。
東日本大震災から約1年、被災地の現状がどうなっているのかを見て、私なりに色々考えてみたいと思っています。
ホントは当初、飛行機でいわて花巻空港から一関を経由して陸前高田に入ろうと思っていたのですが、チケットを取った後に夜行バスが取れることが発覚。キャンセル料を考えると少々痛かったですが、それでもフライト料と比べれば安かったので、急遽変更。当初考えていた仙台起点で動けるようになりました。
結果、この変更が大いに機能したのは言うまでもないですが。
5/3に名古屋を出発。てっきり新潟経由で行くのかと思ったら、まさかの東京経由。
牧ノ原・海老名、そして栃木県那須町にある那須高原サービスエリアを経由して、仙台に。
実は、この日、日本を縦断した爆弾低気圧とも言える発達した低気圧の影響で、5月に入ってから西から順番に全国的に大雨になり、私の住む名古屋は5/2、これから向かう東北方面は5/3から大雨になり、その影響がわずかながら残るという状況でした。途中東北道の一部が速度規制をかけられるくらい路面が冠水しておりました。雨自身は確かにひどい部分もあったものの、思った以上に天候は良い。曇ってはいましたけどね。
7:15仙台(広瀬町一番通)に着。
ダイヤ通りの時刻に到着。あの天候の中よく着けるものと驚愕。
ここで、気仙沼経由大船渡行きに乗るか南三陸経由気仙沼行きに乗るかで迷っていたのですが、時間に余裕のある南三陸経由で行くことに。
結果1時間余裕ができるので、近くにあったマックで朝マックすることに。
マクドナルドのアプリを落としておくと、朝マックの一部が安く頂けたので早速活用。スマホでよかったと思う瞬間である(もちろん、ケータイでも可能なのは言うまでもない)。
しかし、今回は○時間待たされることが多く、その際どうやって時間を潰そうか・・・となると思っていたのですが、実際のところあまり時間が無いんじゃないかと思わされる次第。特にこの先向かった杉ノ下地区ではそれを思い知らされることに・・・。

写真の通り、雨は時々降るというレベルだったものの、河川は濁り普段よりも多いと思われる状況に。よく見てもらうとわかりますが、木々が水に漬かっています。
今回のルートは、三陸道の登米インターチェンジから一般道に入り、赤牛海岸・大谷海岸を経由し目的地である階上(はしかみ)公民館に向かいました。

ここから車で5分(徒歩でおよそ20分)で行け、状況によっては吹き潮が拝めます。
岩井崎あたりは石灰岩の岩場になっており、古生代の化石が採れるほど(ただし公園かつ天然記念物なので、採取は不可)。

鳴らない、踏切。休止中となっているのが何とも切ない。

津波で流されたのか、一時的に撤去してしまったのか、ここから見た限りではわからない・・・。
ここでの滞在時間が約1時間半。十分回れる時間だと思っていたのだが、場所がわからずさまよっていたら、予定時間を大幅にオーバー。大変なことになってしまう。
実のところ、素直に舗装された2車線の道をまっすぐ歩き、途中(突き当たりとも言える)にあるお寺の角を曲がって、道すがらに行けばよかったのだ。しかしながら、途中で入れる道があると思って曲がってしまって、文字通り泥沼にはまる。

少し歩くと、目に見えるのががれきの山。
しかもご丁寧に「墓石」・「布団」などと種類ごとに選別されて。

写真のように、元々住居だったところや田畑だったところにがれきが置かれ、写真下のようにふたが無くなっているマンホールもある。
人々の営みがあったのだ。

家の塀が人々の営みがあったことをさらに強め、津波の大きさと悲惨さを伝えてしまう結果に。
写真には写っていないが、井戸もあり、長いことここで生活していたのだろうと思われる。
慰霊碑が見つけられず、文字通り泥まみれになりそうに、道なき道をさまよいながら、ここではないかと思うところを見つけ出し、やっと見つけ出す。

この慰霊碑の経つ場所はおよそ標高18mにある。のにもかかわらず、震災後の津波がここを襲い、全てをなぎ払ってしまったのだ。
以下、この慰霊碑に刻まれた碑文を全て記載する。
絆 あなたを忘れない
『ここに居れば大丈夫だ』
しかし、無情にも第一波で
下手から家や車が押し寄せ
そして、第二波、第三波が・・・
九十三名の尊い命と
全ての財産が海へと散った
あの一声が無情の叫びに
私たちはあなたを忘れない
今までありがとう
こころやすらかに

この後紹介するこの一文を見たいがために行ったようなものなので、実際見た時には、あまりに圧倒され、感慨深くなり涙が溢れそうになる。
同じく全てを記載する。
東日本大震災の爪痕
平成二十三年三月十一日(金)
午後二時四十六分
マグニチュード九・〇
津波の高さ十八メートル
千年に一度と言われる大地震と
巨大津波に襲われた杉ノ下地区は
壊滅的な被害を受けた
地区民三百十二名、八十五世帯の
家屋は、巨大津波に飲み込まれて
土台を残してすべて流出
七十五世帯、二百十九名が
避難生活を余儀なくされた
平成二十三年十二月十日
残されていた全壊家屋が取り壊され
杉ノ下地区から全ての家屋が消えた
この悲劇を繰り返すな
大地が揺れたらすぐ逃げろ
より遠くへ・・・より高台へ・・・

この景色を見て、ここまで津波が襲ってくることはないだろうとタカをくくってしまう気持ちがよくわかる。
そして、この景色を見て、ここまで津波が襲ってきたのだと、思うとやるせない気持ちにも切ない気持ちにもなり、再び目から涙が止まらない。
実は、道に迷った時、昔からある慰霊碑も見たのですが、慰霊碑の前に骨(まさかとは思うのですが、人骨ではないことを祈る)が置かれており、あまりのセンセーショナルさに目を背けそうになったほどだ(もちろん写真を撮れる気にもなれない)。
ただ、その慰霊碑にはどうも昔から大きな波が押し寄せることが書かれており、地区名を見る限り、大波が襲ってきてもおかしくない場所だったのだ。
普段から対策を練れば・・・と言ってしまえば、それは後の祭りだったのだろうけど、これらの慰霊碑を見て、後世の人達が地震や津波に対する策を一つでも施してくれればと思ってならない。
さて、バスに乗り遅れた私。
道すがらにタクシーの停留所があったので、わらをもすがる思いでそこに向かう。
気仙沼駅までと言ったらOKだったので、行ってもらうことに。予定外の出費だったが、織り込み済みでもあった。
次回は気仙沼から陸前高田に向かう話をしていきます。

