まず、その歯車が狂うきっかけになったのは、目的地に向かうバス。最後の目的地は蒲生というところで降りて歩くというふうだったのですけど、その蒲生まで行くバスが途中(6号公園住宅前)までしか運行していないんです。しかもそのバスが30分すぎにならないと来ない。恐らく終点近くまで乗ることになるので、1時間は掛かるはず。しかも最寄りのバス停が運行休止状態ということを考えると、これ以上のロスは危ないかもしれないと考え、急遽仙石線でのショートカットを図ることを決めました。
仙石線に乗った場合、陸前高砂駅というところで降り、同じ系統のバスに乗っていくというふうになり、だいたい20分くらい早く迎えるようなのです。早く気付いたおかげで、午後4時54分(だったと思う)のバスにはギリギリ間に合った・・・と思ったら、バスが定刻を過ぎてもちっとも来ない(苦笑)。もしや検索に気を取られてバスが行ってしまったのではないかと心配になり、同乗することになる方に伺ったところ、まだ来ていないとのこと。あーよかった。
定時より10分近く遅れてバスがやって来た。恐らく仙台市内の渋滞に巻き込まれた結果なのではないかなと。
しかしそこで乗ったのは、先程バスが来たのかを聞いた人と私の2人のみ。その方も私が降りる1つか2つまえの停留所で下りてしまったので、私の貸し切り状態(汗)。それでも淡々と、仮に誰かがいなくてもルーチンワークでアナウンスなどをこなしているバスの運転手は本当に素晴らしいねと敬意を評したい気分ですよ。
私が降り立った場所は中野新町というバス停。時刻は午後5時10分を過ぎていたと思われ。周りは大きな建物がちょこちょこ見られるだけで、寂しい場所と言えば寂しい。
しかし本当に寂しくなるのは、この先の目的地。今回最も行きたかった場所でもあります。その目的地は、中野新町のバス停からでも歩いて20分ほど(2km以上)あるのではないのかと。

途中の道が震災の影響で壊れているのです。これは地震によるものではなく、津波によるものだと。

震災から4年以上たった今でも、この家はあの日あの時の惨状を伝えたまま、時が止まってしまっているのです。


このあたりは5.5mの津波が襲ってきたようです。ちなみに、この小学校の前にはバス停がありました。本来なら、このバス路線で来るはずだったのです。

近くの小学校でも大勢の犠牲者が出たことでしょう。付近の住民も亡くなられた方がいらっしゃったのではないかと思います。その方々を想い、合掌。

その場所に近付いてきたことを示す「蒲生の一本松」。幸いなことに、このあたりの松の木は何本か残っており、七本松まであったようです。

津波で全て流されてしまったものの、支援者と有志によって再建されました。震災の跡残る狛犬も、この地で来る人達をじっと見守っております。

ここが私が一番訪れたかった場所、蒲生にある日和山。「日本一低い山」として再びその名を残した山です(詳細はこちら)。

残った盛り土の上に、誰が始めたかわからない積み石が置かれ、そこから「日和山山頂3.0m」と書かれた木製の標識が立てられていました。
かつての高さが6mほどなので、約半分しか残っていないのですが、その存在感は他の山に負けないものを持っていました。

ここから見ても、炉端に積み上げられただけなのがよくわかります。

その昔、日和山のそばには蒲生干潟という大きな干潟が広がり、野生の鳥が多く住まう土地でもありました。また多くの自然が残されていたこともあり、海水浴や潮干狩りでにぎわう姿も見られたとのこと。
しかし、震災で全てが無くなりました。いや、無くなったかのように見えたのです。
無くなったと思った山は残りました。砂浜や干潟は無くなったように見えますが、近くの砂浜にはアサリが採れるそうです。また大きな鳥が相変わらずと言えるほど飛ぶ姿も見ました。失ったと思われたものは、再び戻って来ているのです。
ちなみに、この日和山は断続的に訪れる人がいました。車で行く場合、案外便のいいところだからなのかもしれません。歩くには辛いけどな(汗)。
で、日和山を出発しようとするものの、時間は既に午後6時近く。最寄りのバス停である中野新町から余裕で乗れる。しかし、その先がどうなのかがどうとも言えない。下手をしたら間に合わない可能性もある。しかし、ここからなら仙台空港は仙台市内経由よりも近い(でも10km以上あるが)。
さあどうするというところで、次回に続く。

