東京六大学野球(立教大学)のスター選手として活躍した長嶋さんは、1958年に巨人入り。以降世界のホームラン王として名を馳せた王さんと共にON砲を組むこととなり、4番として巨人の中軸を担っていました。
現役17年の間に、首位打者6回・本塁打王2回・打点王5回という記録を残していますが、現役時代に限って言えば、天覧試合でのサヨナラ本塁打、華麗なグラブ捌き、豪快なバットスイングで三振する姿(ただし三振数は非常に少ない選手でもあった)、そして引退セレモニー時に発した「我が巨人軍は永久に不滅です」の一言など記憶に残る選手として有名になったという人も多いのではないのでしょうか。
その後、巨人の監督として1975年~1980年の6年、1993年~2001年の9年、累計15年巨人の監督を務めました。第1期の6年間は現役引退後ということもあってか、なかなか上手くいかず、巨人を初の再開に導いてしまった年もあり、監督としての資質が無いと言われることもありました(「名選手名監督にあらず」と言われるきっかけになったとも個人的には思っている)。第2期監督に就任してからは、他球団から主力選手を獲得するなどの積極補強に動いたことがきっかけで、1994年・1996年・2000年に優勝(そのうち1994年と2000年には日本一)を果たしています。特に1996年の優勝は、11.5ゲーム差をひっくり返し、中日ドラゴンズとの「10.6決戦」を制したことでメークドラマと言われるものになり、2000年は福岡ダイエーホークスの監督だった王さんとの対決になったことから、「ON対決」と言われる日本シリーズとなりました。
選手としても監督としても華麗な一面を見せていた長嶋さんでしたが、長嶋語録と言われる素っ頓狂な一言、野球場に息子の長嶋一茂さんを置いて帰ってしまう(しかも何度も)、バントのサインでバントの構えを見せる、野村克也さんのささやき作戦にも動じないどころか野村さん自身を困惑させるセリフで返すなど風変わりな一面を見せることもありました。ともすれば、ちょっとおっちょこちょいな面もファンに愛される一面なのかもしれません。
その後は、アテネオリンピックで監督を務める予定でしたが、直前に脳梗塞に罹り、夢かなわずに野球現場から去らねばならなくなりました。ただ、懸命なリハビリで1年後には野球関連のイベントに復帰。献身的に野球の普及を図る姿が印象的でした。
亡くなられた日も、奇しくも現役の背番号だった3に絡み、かつ次女の長島美奈さんの誕生日だったそうです。
一番辛いのは、盟友だった王さんだったでしょうね。自身も、「誰もがこの日が来るわけですけど、一番迎えたくなかった」・「ありがとうございましたとしか言えなかった」と称しているだけに、余程堪えたんだろうなと。
日本プロ野球を国民的行事に昇華した功績はとてつもなく大きいです。あの世でも野球界を見守って下さい。心からご冥福をお祈り致します。
今回向かった目的というのは、この「鉄道むすめ」の姫宮ななを撮りにいくため・・・ではなく(ニヤニヤ)。
こちら。
こちらは、長嶋茂雄さんと昨年引退した松井秀喜さんの国民栄誉賞受賞を記念し、両氏のプロフィールとゆかりの品、そして読売新聞(報知新聞)主催ということもあって、当時の記事の掲載なども行っておりました。
この中で今回初登場の品もいくつかありました。
そして一番見たかった国民栄誉賞でもらった金バット。長嶋さんのものだったかと。